「冬の旅」の孤独
「冬の旅」は、一つの物語の終わりから始まります。一人の若者が、美しい五月にある街にやって来ました。娘と恋に落ち、幸せな夏から秋を過し、結婚まで考えるようになります。ところが娘は心変わりし、別の金持ちとの結婚が決まります。元々よそ者である彼は厄介者となり、冬の夜、人目を避け、逃げるようにあての無い旅に出るのです。これが「冬の旅」の始まり。愛を失った者が苦悩を抱きつつ冬の原野をさまようという舞台設定ですが、失恋は旅を始める単なる切っ掛けにしかすぎません。なぜなら、愛の対象である娘の具体的描写はほとんど無く、ただ「綺麗な娘」とか「愛しい人」という表現だけで、どんな女性かは全く分からないのです。これは愛を描いた作品としては異常なことです。つまり「冬の旅」は、失恋の苦悩を描いた作品ではないのです。そこに描かれているのは、共同体としての社会から弾き出された者が、居場所を求めて現世をさまよう、孤独な心の軌跡なのです。特に後半になると娘は全く姿を消し、むしろ「死」が大きな比重を占めてきます。生きて現世をさすらうことは死によって完結するわけですから。
「死」が初めて登場するのは5曲目の「菩提樹」。菩提樹は彼に語りかけます。「ここにお前の安らぎがあるのだ」と。これは永遠の安らぎ、「死」を意味します。彼は死を選ばず旅を続けますが、それは必ずしも彼の強い意志ではありません。突然風が吹きつけてきて、気がつくとずっと遠くまで歩いてしまったのです。始まりもそうでした。彼には居場所がなくなり、仕方なく旅に出るのです。社会から弾き出されたいと自ら望む人はいないでしょう。社会が誰かを弾き出すのです。
この国には年間3万人を越える自殺者がいます。その中には、社会から弾き出され、仕方なく自ら命を絶つ人も少なくないでしょう。また弾き出されながらも、必死で自分の居場所を探し求める人も多くいるでしょう。「冬の旅」の孤独は、決して他人事ではなく、人の結びつきが希薄になり、私利私欲のために容易に他者を否定するこの社会への警鐘とも捉える事が出来ると、私は思います。
孤独な若者は、死の影を感じ、それを求めながら、道しるべに導かれ、墓地へと辿り着きます。彼はその冷たい部屋に永遠に安らぎたいと望みます。でも受け入れられず、彼は更に旅を続けます。そうして誰もいない村外れの雪原で、ただライヤーを弾き続ける奇妙な老人と出会います。「冬の旅」に登場する唯一の人物。彼はこの老人と運命を共にすることを予感します。「私の歌に合わせてライヤーを弾いてくれるか」という問い掛けで「冬の旅」は幕を閉じます。終わりの無い物語なのです。
シューベルトは良き仲間に恵まれ、彼を中心としたシューベルティアーデという集まりさえありましたが、社会的にはほとんど認められず、経済的にも困窮していました。シューベルトは、社会から弾き出された「冬の旅」の若者に自らを重ね合わせていたように、私には思えます。彼の神学校時代からの友人ヨーゼフ・フォン・シュパウンが、1827年「冬の旅」第一部(前半の12曲)が完成した後の出来事として、こんな話を伝えています。
シューベルトは憂鬱そうで、とてもくたびれている様に見えた。訳をきくと、「もうすぐ君たちにも分かってもらえるさ」としか答えなかった。ある日、彼は私に「今日ショーバー(友人)の家に来てくれないか。凄い歌曲集を聴いてもらいたい。この歌のために、僕はこれまでの歌よりも、ずっと精力を消耗したのだ」と言った。そして、彼は感動に声を震わせ、「冬の旅」全曲を歌ってくれた。我々はその歌曲集のあまりに暗い雰囲気にすっかり呆気にとられてしまった。シューベルトは「僕はどの歌よりもこの歌曲集を気に入っている。いずれ君たちも気に入ってくれるだろう」と言うだけだった。彼は正しかった。やがて我々も、フォーグル(友人・歌手)が立派に演奏したとき、この悲哀に満ちた曲想に深く感銘を受けたのだった。我々は、シューベルトはまだまだ元気な若者だと思っていたが、彼はこのときからくたびれた様子だった。彼が午前中に作曲している様子を一度でも見た者は、彼の燃えるように輝いた眼と、夢遊病者に似た様子を決して忘れないだろう。午後になると、彼は普段の状態に戻り、優しく、そして自分の感情を見せずに自分の中に閉じこめてしまうよう心掛けていた。
1828年11月11日、彼は床に伏していた。重病であるにもかかわらず、ひどい苦痛の様子を見せる事はなかった。ただ、だるさを訴え、時々うわごとを言っていた。彼はわずかの合間を利用して「冬の旅」の第二部(後半の12曲)の校正をしていた。
11月19日午後3時、彼は永眠した。
1. Gute Nacht おやすみ
若者は厄介者となり、そこに留まることが出来なくなってしまった。その経緯と心境が語られる。社会から弾き出された者が、冬の夜、逃げるように、あてのない旅へと出かける。旅を象徴する「歩行のリズム」。
2. Die Wetterfahne 風見の旗
外に出ると、恋人の家の屋根の上で風見の旗が風にもてあそばれていた。それは移り気の象徴。
3. Gefrorne Tränen 凍った涙
涙が凍り、頬から落ちる。胸は燃えるように熱いのに。
4. Erstarrung 凍てつき
一面の雪原に幸せな夏の名残を探し求める。そこは恋人と歩いた草原。自分の心も雪原のように凍てついている。
5. Der Lindenbaum 菩提樹
菩提樹の木陰。いつも足を向けた憩いの場所。今日、真夜中、その傍を通り過ぎる。目を閉じると枝がざわめき、語りかけてくる。「ここにお前の安らぎがあるのだ。」と。これは死を意味する。彼は現世の冬の旅を続けるのである。
6. Wasserflut 溢れ流れる涙
涙が溢れ、雪に染み込んでゆく。この涙も春には雪と一緒に融けて、彼女の家まで流れてゆくだろう。
7. Auf dem Flusse 流れの上で
凍てつき、氷った川。その固い表面に、彼女の名前と思い出の日付、破られた婚約の象徴、壊れた輪を刻み込む。
8. Rückblick 振り返り
振り返らず必死で歩いてきた。変わり果てた街の姿を見たくなかったのだ。五月には、花が咲き、鳥は歌い、娘の輝く瞳が彼を迎えてくれたのに。
9. Irrlicht 鬼火
鬼火に誘われるまま、岩山へと分け入る。すべての川は海に到る。どんな悲しみもいずれはその墓に入る。
10. Rast 休息
狭い炭焼き小屋で休息をとる。静けさに身を置いて、心身の苦悩が疼き始める。休もうとしない身体が「歩行のリズム」を刻み続ける。
11. Frühlingstraum 春の夢
夢を見た。五月を、花を、草原を、愛を、恋人を、幸せを。雄鶏の声が時を告げる。窓の霜が葉っぱに見える。それは春を夢見る愚か者をあざ笑うかのよう。
12. Einsamkeit 孤独
嵐も止み、穏やかに晴れ渡り、光あふれる外界。人々の明るい暮らしの中をただ一人、誰とも交わることなく、孤独な旅を続ける。自分の惨めさがいっそう際立つ。足を引きずる重たい「歩行のリズム」。
13. Die Post 郵便馬車
郵便馬車の到着を告げるラッパが聞こえてくる。自分宛に手紙が届くはずもないのに、心は高鳴る。
14. Der greise Kopf 白髪の頭
霜が黒髪を覆い尽くした。老人になったかと喜ぶが、すぐに元通り。死を願うが、まだ遥かに遠い。
15. Die Krähe からす
ずっと頭の上を飛び、後をついてきた奇妙な鳥。死を予感させる不吉な鳥が、今は唯一の忠実なる存在。
16. Letzte Hoffnung 最後の望み
木立に残る枯葉。その一枚に自分の希望を託す。その葉とともに自分の希望も散りはてる。
17. Im Dorfe 村にて
寝静まった村を一人通り過ぎる。番犬が吠え、鎖が鳴る。ベッドで夢をむさぼる小市民たち。社会からはみ出した彼には、もう夢など無縁なもの。
18. Der stürmische Morgen 嵐の朝
雲は千切れ飛び、赤い閃光が走る激しい冬の嵐。それは自分の精神に相応しい朝。
19. Täuschung 惑わし
怪しい光に、誘われるままについて行く。それは氷と夜と恐怖の向こうに、暖かい家庭と愛する人を見せてくれる。惑わしが唯一手に入れられるもの。
20. Der Wegweiser 道しるべ
人目を避け、人の通わぬ道を行く。それは狂気のなせる業。道しるべなど無縁の旅だが、一つの道しるべが目の前に現われ、ある道を指し示す。それはいまだかつて誰一人として戻ってきた者がいない道。「歩行のリズム」が行くべき道へと誘う。
21. Das Wirtshaus 宿屋
その道は墓地へと繋がっていた。ここで休みたい、永遠の眠りにつきたいと願ったが、受け入れられず、さらに旅を続ける。
22. Mut 勇気
死を拒絶され、今一度勇気を奮い起こす。この世に神がいないのなら、自らが神となろう。
23. Die Nebensonnen 幻の太陽
空に太陽が三つ。何を意味するのか。彼もかつて太陽を三つ持っていた。だが今は良い方の二つが沈んでしまった。ならば全部沈んで、暗闇の方がまし。
24. Der Leiermann 辻音楽師
村外れの雪原でライヤーを弾く老人。誰も聞いていないのに、なるがままに任せ、一心にライヤーを弾いている。この旅で出会った唯一の人間。それは社会から見捨てられた絶望なのか、現世の希望なのか。 |