美しき水車屋の娘〜その牧歌的世界
「美しき水車屋の娘」は1823年、フランツ・シューベルト(1979〜1828)が26才の時に作曲されます。詩人はヴィルヘルム・ミュラー(1794〜1827)。シューベルトと同世代の詩人です。二人は直接の交友はありませんでしたが、作品を通して密接な繋がりを歴史に残します。不朽の名作「冬の旅」もこの二人によるものです。ミュラーの詩は素朴で民謡的な語調が特徴ですが、現在のところ文学的評価はさほど高くありません。しかしドイツの抒情詩を代表する詩人ハイネは、ミュラーの詩に自分の理想を見出し、彼に賛辞の手紙を送っています。彼の生きた時代背景などを踏まえた歴史的再評価の気運が、近年高まってきているようです。
この物語の背景にはドイツの職人制度があります。水車屋とはつまり、水車の動力を利用して石臼を回し、製粉する職人のことです。この粉挽き職人を志す者は、まずどこかの製粉所に弟子入りします。そこである期間修業を積むと、別の仕事場で経験を積んでいきます。そうして幾つもの修業を経て技術を磨き、一人前になっていくのです。主人公の若者は、この粉挽き職人の見習いです。ある水車屋での修業を終え、新たな修業の場を求めて「さすらい」の旅に出るところから物語は始まります。邦題では「美しき水車小屋の娘」が通例ですが、これではどうしても、弟子を何人も雇うようなある程度大きい規模の粉挽き場を想像しにくいですし、原題の「Müllerin=粉挽き職人(女性)」という意味も踏まえ、「水車屋の娘」としました。
詩人と作曲家が生きた時代は、産業革命の発展期と重なります。動力は水車から蒸気機関へと転換され、それとともに職人制度が息づく牧歌的時代は終焉へと向かいます。近代へ移行する劇的な時代転換は、社会にかつてない不安や矛盾を生み出しました。激しい変化の渦の中、特に若者は未来への展望を持つことが難しくなり、社会との関わりにおいて精神の安定を得られなくなっていきます。その結果、彼らの中の特に繊細な精神の持ち主たちは、現実から逃避し、精神的放浪(さすらい)へと向かいます。その行く先の一つが過去への回帰なのです。「美しき水車屋の娘」は、まさにそのような時代の機運を反映した、古きよき時代、滅び行くものへの共感から生まれ出た作品と言えるでしょう。愛ゆえの喜び、苦しみ、官能、怖れといった人間のさまざまな感情が、牧歌的舞台を背景に、素朴に描かれてゆきます。それは、社会のシステムがさらに複雑に進化し、あらゆる場面で人の温もりが感じにくくなってしまった現代に生きる我々にとっても、精神的オアシスと言えるものだと思います。時代がどんなに変化しても、人を愛するという人間の根源的感情は変わることはありません。この作品は、我々が便利さと引き換えに失ってしまった大切なものを思いださせてくれるように、私には思えます。私たちはもう、せせらぎを聞いて、それは妖精が歌っているのだと信じられるような心と美しい小川を、暮らしの中から失ってしまったのですから。
全20曲からなるこの歌曲集の神髄を存分に味わって頂くために、私自身の日本語訳詩の朗読を挟んでゆきます。訳詩朗読は単に歌詞の意味を辿ることに留まらず、ミュラーの詩情を浮き彫りにし、シューベルトの音楽を鮮やかに映し出す案内人としての役割を果たします。
1. さすらい Das Wandern
粉挽き職人の修業中の若者が、新たな修業の場を求めてさすらいの旅に出かける。川の流れ、水車、石臼などの仕事道具自体が「さすらい」をあらわしている。
2. どこへ? Wohin?
さすらいの旅に地図はない。若者は小川の流れに沿って進んでゆく。せせらぎは彼を魅了し、流れに沿っていけば必ず水車屋にたどり着くと彼を励ます。
3. 止まれ! Halt!
榛の木の向こうに水車屋が。若者は水車の響きに心を踊らせる。この水車屋に導いてくれたんだねと、彼は小川に問い掛ける。
4. 小川への感謝 Danksagung an den Bach
その水車屋には美しい娘がいた。娘が小川に託して自分を誘ったのか、小川が自分をだまそうとしているのか、若者は考える。若者はここで見習いの修業をしようと決意し、小川に感謝する。
5. 仕事終わりの夕べ Am Feierabend
若者は仕事を始めるが、他の弟子たちと大してかわらない自分の腕前にいらだつ。一際の腕前を見せて、水車屋の娘に認めてもらいたいのだ。
6. 知りたがり Der Neugierige
若者は娘の気持ちを知りたいと思う。小川に尋ねてみるが、返事はない。愛の喜びと不安が交錯する。
7. いらだち Ungeduld
若者は娘への気持ちを抑えきれない。なんとかしてこの熱い思いを娘に伝えたいと願う。「この心は君のもの」という気持ちを表したいと焦燥し、情熱はさらに高まる。
8. 朝の挨拶 Morgengruß
朝の挨拶になぜか娘は顔を背ける。若者は戸惑い、それでも自分の気持ちを伝えたいと願う。愛の不安と悩み。
9. 粉挽きの花 Des Müllers Blumen
川岸に咲く青い花。娘の瞳と同じ色。若者はその花を窓辺に植え、この気持ちを娘に伝えて欲しいと花に託す。
10. 涙の雨 Tränenregen
川岸に二人で座っている。流れに映る娘の姿を見つめ、若者は幸せを噛みしめる。流れには空が映り、水底に天が沈んでいるように思えた。そして小川が自分を川底へと誘っていると感じる。終末の予感。
11. 私のもの! Mein!
すべての音よ静まれ、ただ一つの詩を響かせるために。「水車屋の娘は私のもの!」。この幸せを理解するものはこの世でただ一人私だけなのだ。歓喜が響き渡る。
12. ひと休み Pause
幸せすぎて、もうこの気持ちを歌うことさえ出来ない。若者はリュートを緑のリボンで縛り、壁に掛ける。そのリボンの端が時々弦に触れ、ため息のような音を奏でる。それは苦悩の余韻か、新たな予感か?
13. 緑のリュートのリボンで
Mit dem grünen Lautenbande
娘が、リュートに結びつけた緑のリボンを好きだと言った。若者はすぐにそれを解いて娘に贈る。緑は愛の色、希望の色。二人を結びつけてくれる色。
14. 狩人 Der Jäger
恋敵が現れる。狩人。若者は苛立ち、不安にさいなまれ、荒々しい感情を狩人に向ける。
15. 嫉妬と怒り Eifersucht und Stolz
小川は若者の苛立ちに呼応し、激しく波立つ。その激流は恋敵の狩人へと向かうが、若者はそれを引き止め、心変わりした娘を諌めて欲しいと懇願する。
16. 好きな色 Die liebe Farbe
娘は緑が好き。だから緑の喪服を身にまとおう。娘は狩が好き。だから愛を狩に行こう。愛を弔う葬送。
17. よこしまな色 Die böse Farbe
この世界から緑をすべて消し去りたい。いやな色。粉まみれの白い男には無縁の色。娘に別れを告げる。
18. 枯れた花 Trockne Blumen
娘からもらった花を全部、一緒に墓に入れて欲しいと若者は願う。春になっても、その花だけは芽吹くことはない。いつか娘が、自分のことを誠実な人だったと思い返してくれるとき、初めてその花は芽吹くのだ。
19. 粉挽きと小川 Der Müller und der Bach
粉挽きと小川の対話。誠実な心が愛に破れると、花は枯れ、月は隠れ、天使はすすり泣くと、粉挽きが言う。愛が苦しみから解き放たれると、星が輝き、薔薇が咲き、天使は地上に降り立つと、小川が答える。若者は小川の優しさに心打たれ、水底に憩いを見いだす。
20. 小川の子守歌 Des Baches Wiegenlied
若者は小川の底に身を横たえる。小川は子守歌を歌う。喜びも苦しみもすべて忘れて眠りなさいと。月が昇り、霧は晴れ、上空にはただ天が、果てしなく広がっている。
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