〜公演プログラムより〜
<曲目解説> 柴田南雄(過去の公演プログラムより転載)
歌曲集「優しき歌 」
立原道造は1939年に25歳で夭折した抒情詩人で、彼は建築家でもあった。口語の散文詩風の詩だが、ソネットの形をとっており、脚韻や頭韻の試みもみられる。作曲にあたっては、歌われている信濃の高原の気分とともに、それら構成的な要素もいかそうと考えた。僕の作品の中ではたしかに幸運に恵まれていて、二三の歌曲集にも納められている。
「厭な男」
羽仁協子が、作曲のレッスンでこの詩を使って合唱曲を作ったことがあり、それが頭に残っていて自分でもこの詩をとりあげて見たくなり、その結果生まれた曲。1953年12月の作で、セリーによる完全な12音技法によっている。伴奏はピアノのために書いた。
「朝の歌」
1952年の作。ベルクのカンタータ「ぶどう酒」のセリーを借用している。しかし構成は全然似てもいないし12音の技法も厳格ではなくかなり調的でもある。伴奏はオーケストラを予想して書いた。
「雨ニモマケズ」
昭和49年に、わたくしが子供たちの作曲のクラスを受持っている尚美音楽院の学院祭のために作曲したもので、上演には演技を伴い、また、電子音楽のテープ演奏を一緒に スピーカーから流すことを予定して、旋律だけを作曲しました。(じつは、どのくらい短い時間で作れるか、自分を試してみるつもりでとりかかり、2時間26分で終了しました。)初演以来いつも、わたしの作った電子音楽 <Displey'70>(Version 2)と一緒に演奏しています。なお、この詩を選んだのは、賢治がこの詩を書いた日と、上記学院祭での初演日がともに11月3日である、というただそれだけの理由だったと思います。
「パイドロス−はばたくエロス」(バリトン〜カウンターテナーのための)
古代ギリシャの美少年愛育方奥義を、声楽の秘義を尽くして表現する「演奏会アリア」の一種。内容はソクラテスとパイドロスの対話(プラトン作)で、それを一人の歌い手が歌いわける。さらに対話の間には演説が三回あり、第一の演説は美少年を愛するには、互いに恋愛関係にない方がよいとのリュシアスの論説の紹介、第二の演説はソクラテスがそれを聞き、自分ならその内容でもっと上手にやれる、と称して早口で試みるが成功せず、第三の演説で、やはり恋愛関係にある方がよかろうとの結論になる。修辞学で武装した形式堅固な演説の内容がすこぶるとぼけているのが味噌。リコーダーは紀元前5世紀から紀元2世紀までのギリシャの旋律断片を、奏者が自由に選択し歌を即興的に伴奏する。
「行き止まりの孤独」〜朔太郎をテキストにした理由〜 吉川和夫
谷さんからもらった宿題は、こうだ。 立原道造・中原中也・ヴェルレーヌ=鈴木信太郎・宮澤賢治の間に置いてハマるような「日本歌曲」を書いてほしい。「日本歌曲」かぁ、日本語歌曲はともかく、ジャンルとしての「日本歌曲」は敬して遠ざけていたからなぁ.....。 それで?何か歌ってみたい詩はあるんですかという問いに、谷さんは、例えばですがと控えめに何人かの詩人の名を挙げ、そこに朔太郎の名前もあった。 不覚ながら、数編の詩を除けば、ぼくはそれから初めて朔太郎を意識して読んだと言って良い。そして、とても驚いた。何なのだ、この人は。吉本隆明氏も書いている。 「萩原朔太郎には、すこし異常なところがあったようである。」(「朔太郎の世界」 )と。 その詩には、しばしば何とも薄気味悪い象徴が現れる。舌をべろべろ出している腐った蛤、土の底から出る手、蛆虫の這う腐肉、蝿の幽霊、泥猫の死骸。この薄気味悪さは、はじめシェーンベルク「ピエロ・リュネール」のアルベール・ジローを連想させる。が、それよりぐにゃぐにゃしていて、粘り気や湿り気があって、どうやら嫌な匂いも発しているらしい。なぜ、そんな気味の悪いものをわざわざ歌曲にするのだという非難が起きるのは承知の上で、五編の詩を選ぶことにした。あとで聞いたことだが 、谷さんがイメージしていた朔太郎は、「純情小曲集」の幾編かのような、ロマン、 いや浪漫ティックな詩句だったらしい。よりによって、こんな詩ばかり選ぶとは、と彼は紳士だから言わないが、きっとそう思っているだろう。朔太郎を読んでいると言ったら、寺嶋陸也はとても嫌な顔をした。たしかに彼には、この病気系、薬物系、異 常心理系、同性愛傾向系は似合わない。(かと言って、吉川には似合う、とも思ってほしくはないが。) 朔太郎の多くの詩には、ここから何かが芽生え、生育するという兆しが見えない。寄る辺ない行き止まりの孤独と「かなしみ」だけが抽象化され、どんよりと浮いている 。だが同時に、そこには何とも言えない「おかしみ」がある。ユーモアというには軽すぎる、読み手をはぐらかすような、また時には自虐的な滑稽感。 大正中期までに書かれたこれらの詩句の「かなしみ」や「おかしみ」を歌うことは、 人間の存在の孤独を、深い芸術表現として抽象化しようとする力の衰えている今日にこそ、ふさわしいことのように思える。それが、これらの詩をテキストとした理由である。五編の詩は、いずれも詩集「月に吠える」所載。 |